善い企業へのストーリーテリング
善い会社になるために必要な事は何か。
それはその会社に所属する人々が、善い会社になりたいと思うことだ。モチベートされていることだ。
そのためには何が必要だろうか。
物語が必要だ。事業計画というのはいってしまえば物語だ。これから5年で事業を成長させ、利益はこれだけだし、そして予算を達成し、そしてこれだけ配当して、銀行に返済して納税する。そういった物語なのだ。
しかしそんな物語だけで人々は力になるだろうか?
人々は
・事業を成長させること
・利益を創出すること
・予算を達成すること
・配当が多いこと
・銀行に返済すること
・納税すること
こういった事には興味がないのだ。
これは事業者の資本家の理論であって、労働者の理論ではない。
私自身も金持ちの資本を守ること自体には何の興味もない。その資本を増やすことにも興味はない。だったらそんな泥臭い仕事なんてしていないのだ。
労働者、そういう言い方はしたいものではないが、この会社社会である日本で、そこで働く人々が、誇りを持って仕事をする、そういう環境を一つでも多く作っていきたい。再生という文脈が、資本家の文脈であるならば自分は再生には興味がない。
では再生でないなら何なのか。
再生というのはあくまで、きっかけに過ぎない。変化のきっかけに過ぎない。つまり再生は手段に過ぎない。再生は目的ではなく、一つのきっかけと手段であって、そこから企業が生まれ変わるきっかけなのだ。
そこで膿を出し切り、外部の目線から全てを入れ替えて、そしてマサラになって残った人々や文化、そして強さで、あるべき、善い会社を創り上げる。
事業計画は定量的なものだが、それは定性的なものからくみ上げられなきゃいけない。
そして組み上がった事業計画は、定性的なものとなって、その企業の主体である各位が持たなくてはならない。
それは信念であり、目標であり、ビジョンであり、理念であって、そしてその奥にあるのは一つの信仰だと思っている。
「自分の会社は善い会社だ」
そういうことを言い続けて、実現させていかねばならない。なぜ良い会社か、それは誰も説明できないし、そもそも再生フェーズまで墜ちた会社を誰も良い会社だなんて思えないかも知れない。
しかしそんなことはどうでも良い。
組織の成員は皆がみな、自分の会社を善い会社だと想いたいに決まっているのだ。人生を投資し、自分の肩書きになり、人生の時間の半分を費やす。そんな場所を皆が善い会社にしたいとは想っているのだ。
そのためには言葉が必要だし、その言葉を言い続ける必要がある。そしてその言葉には時間が、そして文脈が必要だ。そして裏付けも必要なのだ。
裏付けとなる適切な事業計画をしっかりと策定し資本家との合意をしっかりと取りつつ、再生をチャンスとして会社の膿を出し切り、そして善い会社であると謳い、そしてムーブメントを起こしていく。
そういう仕事を自分の職としていきたい。それがターンアラウンドなのだ。